坂本龍馬が歩いた町。伏見。

公開日 : 2015年01月26日
最終更新 :
筆者 : Akio

伏見の町を大手筋から龍馬通りに入ると、龍馬館が見えます。

坂本龍馬や新撰組のグッズが人気のお店です。

伏見2015.1 043

龍馬通りを抜けて、寺田屋に着きました。

江戸時代の伏見は、大阪と京都を結ぶ淀川の舟運の港町として栄えた町で、港に面して

寺田屋のような船宿は何件も軒を連ねていました。

大阪へと続く淀川の舟運は、平安時代以前からありましたが、淀川の治水を行い

盛んにしたのは豊臣秀吉でした。

1594年(文禄3年)には、伏見城築城の建築資材を運び込むために大規模な

宇治川の土木工事を行い、港を築いています。

伏見2015.1 047

寺田屋は、江戸時代初期から続く船宿で、薩摩藩の定宿でもあり

坂本龍馬も頻繁に利用した船宿でした。

船宿は現在の鉄道のターミナルのような存在で、淀川の航行権を持ち、船問屋と提携していて、

旅人は船宿に入ってから船に乗る事になっていました。

伏見2015.1 048

寺田屋さんの各部屋では、当時の写真や龍馬の書いた書物、掛け軸や肖像画を

見る事が出来ます。

伏見2015.1 066

当時の寺田屋前の船溜まりの様子が伺える写真がありました。

淀川三十石船は京都と大阪間(約44.8㌔)を繋ぐ快速船で「早上り三十石」と呼ばれ、

多い時には162隻が就航し、一昼夜で上り下りが合計320便、一日9000人近くが往来したそうです。

三十石船は、当時の重要な交通機関であったのでしょうね。

伏見2015.1 064

坂本龍馬の肖像画。

この絵は、寺田屋の女将お登勢が坂本龍馬に奨めて、町の絵師に描かせたものだそうです。

坂本龍馬さんは身長182cmと言いますから背の高い人だったんですね。

img_11龍馬

寺田屋と言いますと、幕末期に起こった、坂本龍馬襲撃事件の舞台になった場所です。

寺田屋騒動の夜 (慶応2年)(1866)1月23日、

奉行所は龍馬が寺田屋に入った事を知り、百人余りの人数で坂本龍馬捕縛のため 

寺田屋に向かいました。

img_9龍馬寺田屋

寺田屋では その頃、龍馬の妻おりょうが入浴していて、寺田屋の外に百人からの

奉行所役人がいる事に気づきます。おりょうは、龍馬に伝える為に、着るものも着ずに二階に駆け上がります。

龍馬は、おりょうから事の仔細を聞いた直後、奉行所の捕り方が二階に殺到して来ます。

龍馬と一緒にいた槍の達人の三吉慎蔵は手槍で応戦。

龍馬も高杉晋作から もらったピストルで応戦しています。

伏見2015.1 053

しかし、二人と百人では分が悪いため、龍馬と慎蔵は隣の家に飛び込み、

その場を切り抜けています。

この時、龍馬は親指を負傷。

近くから、薩摩藩士が舟で竜馬を助けに来て、薩摩屋敷に担ぎ込まれ命拾いをしています。

伏見2015.1 068

寺田屋さんを出て、堀沿いを歩くと月桂冠の酒蔵の景色が広がります。

江戸時代の伏見は、大阪と京都を結ぶ港町。

寺田屋事件で怪我をした龍馬は、しばらく伏見の薩摩藩邸にかくまわれた後、

妻のおりょうと共に薩摩へ向かう「日本最初の新婚旅行」も、伏見がスタートだったと言われています。

伏見2015.1 073

《寺田屋》

○所  京都市伏見区南浜町

バス停 市バス 京橋バス停

○アクセス  京阪中書島駅徒歩5分

○拝観時間   10時~15時40分

○拝観料    一般400円

筆者

京都特派員

Akio

京都は平安京の頃から、今に至るまで様々な歴史が残っている町。歴史と季節を訪ねながら京都特派員ブログを、綴って行ければと思います。

【記載内容について】

「地球の歩き方」ホームページに掲載されている情報は、ご利用の際の状況に適しているか、すべて利用者ご自身の責任で判断していただいたうえでご活用ください。

掲載情報は、できるだけ最新で正確なものを掲載するように努めています。しかし、取材後・掲載後に現地の規則や手続きなど各種情報が変更されることがあります。また解釈に見解の相違が生じることもあります。

本ホームページを利用して生じた損失や不都合などについて、弊社は一切責任を負わないものとします。

※情報修正・更新依頼はこちら

【リンク先の情報について】

「地球の歩き方」ホームページから他のウェブサイトなどへリンクをしている場合があります。

リンク先のコンテンツ情報は弊社が運営管理しているものではありません。

ご利用の際は、すべて利用者ご自身の責任で判断したうえでご活用ください。

弊社では情報の信頼性、その利用によって生じた損失や不都合などについて、一切責任を負わないものとします。