「マーケット人生はまさに波乱万丈」~江守 哲の「マーケット人生物語」(第3回)

なぜいま私があの「住商事件」を取り上げようと思ったか

みなさん、こんにちは。

第2回目の掲載の「マーケット人生物語」も好評だったようです。

知り合いや友人などからは、「お前があの事件の処理をしたのか」とのメッセージもたくさんもらいました。

あのような話は、自分から積極的にするものではないので、近い友人でも意外に知らなかったりします。

非鉄金属業界で、しかも私よりせいぜい数年下の年次の方までしか、あの事件を覚えているひとはいません。

若い人は、あの事件さえも知りません。

しかし、ここであえて取り上げているのには二つの理由があります。

ひとつは、いまの私があるのは、あの事件があるからです。

あの事件を経験し、その後の転職先やそれ以降のキャリア形成において、あの事件の現場で実務処理をした経験が非常に大きく影響しただけでなく、様々なノウハウを手にすることができたからです。

そして、1999年には『LME(ロンドン金属取引所)入門』(総合法令出版)を出版することになりました。

この本では、非鉄金属価格が決定されているロンドン金属取引所(London Metal Exchange)での取引の歴史や方法、ヘッジなどの手法について解説しています。

この本を出版できたのも、あの事件があったからです。

そして、この本はいまだに日本の金融や商社の方の非鉄金属取引におけるバイブル的な位置づけになっているとのことです。非常に嬉しいですね。

2年前に、ロンドン金属取引所が香港と東京でセミナーを開催しました。

その際に、私は日本人で唯一、単独での講演を両方のセミナーで行いました。これも過去の経歴があったからことだと思います。

また、その時に日本の英国大使館で開催されたレセプションでは、多くの非鉄金属業者の方々に再会する機会を得ることができ、懐かしい時間を過ごしました。

「災い転じて福をなす」ではないですが、あの事件の処理をしたことで、いろんなことがわかり、転職先でも仕事をスムースにできることができたことは事実です。

いまもあの当時の話は、投資家の方に非常に興味を持って聞いていただいています。

しかし、興味本位の話ではなく、あくまで市場の本質というか、市場を取り巻くリスクや問題点といった部分にフォーカスしてお話していきたいと考えています。

この事件の話を書いているもうひとつの理由は、企業のリスク管理の考え方のヒントになるのではないかとの思いです。

あの事件が発生する数年前には、英国の銀行であるベアリングのトレーダーがシンガポールで行った日経平均先物の簿外取引で大きな損失を出し、ベアリングは倒産しました。

それから間もなく、大和銀行のニューヨーク支店でも簿外取引で損失が発生する事件が起きました。

当時はこのような事件が頻発していたにも関わらず、同様の事件が発生したことに問題があります。

リスク管理の難しさが露呈したわけですが、今考えると、それは言い訳でしかないと思います。簿外取引を見つける方法はいくらでもありましたから。

企業のリスク管理はいまでこそ重視されていますが、やりすぎると営業の妨げにもなりますし、非常に難しい問題ではあります。

しかし、それでもしっかりと管理しないと、また同じことが起きます。そのポイントなども、ここで解説できればと思います。

このコラムではいろんな側面から、様々なことについて書けると考えています。気づいたことから順番に書いていきたいと考えています。

さて、新刊「1ドル65円、日経平均9000円時代の到来」(ビジネス社)の販売が好調に推移しています。

お読みになっていない方は、この機会にぜひ一読ください。



マーケット人生物語~私の人生を変えたアノ事件・第3回

3年目に入り、これまでの業務を後輩に引き継ぎながら、自分の目標としていた第一段階であるマーケットの仕事に就くところにまできました。

しかし、マーケットの仕組みや取引の方法など、まずはマーケットそのものを理解することが必要でした。

ようやくマーケットに関わる仕事につくことになったのは良かったのですが、さすがにマーケットを理解するのは難しかった、というのが本音です。

私が最初に担当したのは、現物取引に基づくポジション管理でした。

現物価格は毎日、刻一刻と変化します。また、現物の買い(輸入や国内生産者からの購入)と売り(国内実需化への販売や輸出・三国間貿易)の価格差がリスクになります。

そのリスクを管理し、さらに必要であればヘッジを行うのが主な業務でした。

マーケットがどのような理由で動いているのかもわからない中で、この業務を行うことは、かなりの困難を伴いました。

しかし、私は運が良かったのです。その時の上司は非常に良い方で、丁寧にそのやり方を教えてくれました。教えるのも上手な方で、私の理解は一気に進みました。その結果、少しずつですが管理の幅を広げることができました。

とはいえ、まだまだマーケットがどのような背景で動いているのかをよく理解していませんでした。

そのような状況でも、業務を行いながら覚えていくしかありませんでした。

徐々に慣れてくると、怖いもので感覚がマヒしてきます。自分はわかったつもりになってしまうのです。これが落とし穴にはまる原因となりました。

任せてもらえるポジション量が徐々に拡大されるにつれて、私も少し調子に乗っていました。そして、実際に取れるポジション枠一杯にリスクを取り、収益を上げようとしました。

しかし、不思議なものです。このように考えたときには、だいたいのケースで上手くいきません。やはり、結果は上手くいきませんでした。まだまだ市場を理解できていなかったのです。

多少の損失をもってポジションを解消し、上司にはかなり怒られました(やさしくではありましたが)。

担当業務としては、リスクを取るよりも、リスクを排除することを重視すべきでした。

その後は、本来やるべき業務に邁進し、その結果、さらにポジション枠を拡大することができました。

そのうち、私に業務を指導してくれた上司がNYに転勤することになりました。そのため、その上司が抱えていた、銅チームの現物市場に関するすべてのポジションを管理する立場に抜擢されたのです。これは非常に大きな出来事でした。

当時の銅チームの現物の取扱高は、トレーダーとしては世界一といわれていました。そのブック(管理表)をまだ入社わずか4年目の私が担当することになったわけです。まさに抜擢といってよい状況でした。

その決断をしたのが、銅チーム長である「ミスター5%」と呼ばれていた浜中さんでした(あえて、“さん”と呼ぶことにします)。

「ミスター5%」浜中さんと上司と部下の関係に

この担当替えにより、浜中さんとのコミュニケーションが格段に増えました。直属の上司になったわけですので、当然といえば当然でした。私の業務の報告はすべて彼に直接行うことになったのです。

扱うポジションの量も一気に増え、その負担は非常に大きなものになりました。マーケットは主に東京時間の午後4時ごろから活発化し、翌朝5時まで開いていました。

非鉄市場がロンドンにあるわけですから、それに合わせて取引が行われるのは当然でした。つまり、私はその時間に合わせて仕事をすることになったわけです。

当時はフレックスタイム制度があり、午前11時に出社する生活が始まりました。しかし、実際の業務終了は朝の3時とか5時とか、その日の市場動向次第でした。

今から考えると、身体的にも精神的にも非常に厳しい仕事でした。実際、5時まで取引することはなく、せいぜい3時ごろまででしたが、それでも毎日となると、若い身体にも堪えました。

また、当時私は結婚もし、最初の子供である長男が生まれていたこともあり、私生活も厳しい状況でした。

帰りが遅く、家庭に時間をかけることができず、最悪の夫になっていました。いろいろ苦しい時期もありましたが、奥さんがいまも一緒に暮らしてくれていることに大変感謝しています(笑)。

ちなみに、その長男も早いもので今年の4月に就職しました。彼もマーケットの仕事をするのかはわかりませんが、アドバイスを求められれば、ぜひ答えてあげたいと思います。

さて、取引するポジションが増えると、海外市場からのコンタクトも多くなりました。ミスター5%の後釜ということで、海外の取引先からも非常に優遇されました。

「浜中さんはやはり本当にすごい人なんだ」と実感することも多くなりました。そして、海外出張や業界パーティーなどに出席すれば、業界で浜中さんがいかに有名であるかと否が応でも知らされるのでした。

このような状況で、日々のトレードを続けるうちに、徐々に何かしらの変化の兆しを感じるようになりました。

つづく。