部長が“SNS”で豹変したのは、何故か?



【他人をバカにすることで生きる男たち──④“罵倒Twitter事件”が映す地位に溺れる男の尻】

前号から続いています)

「他人をバカにすることで生きる男たち」と題した大型連載第4弾。今回のテーマは「40代以上に求められる“大切なコト”」。

「クソ馬鹿ハゲ野郎」「こいつを自殺させるのが、当面の希望」──。こんな見るにたえない文言をTwitterで送り続けた某新聞社の報道部長が、処分された事件のこと、覚えていますか?

今からちょうど一年前の、「勤労感謝の日」の出来事でした。

この男の“尻”は……、相当に醜い。彼こそが「属性に溺れた野蛮な輩」です。しかしながら、反面教師にするにはもってこい。そこで、今回は「この事件」を振り返りながら、SOCの高い人たちが決まって大切にしている“あるコト”をお話しましょう。

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まずは、ざっとおさらいから。

この事件は新潟県の地方紙「新潟日報」上越支社の報道部長が、新潟水俣病3次訴訟の原告側弁護団長の弁護士を中傷する書き込みを、Twitterでしていたもので、弁護士以外の人に対しても「速く死ね! 今死ね! 毒飲め、早く死ね!」「お前の赤ん坊を、豚のエサにしてやる!」などといった暴言を繰り返していました。

当初、被害にあった高島弁護士は「不確かな情報を流すのはやめてください」「まぁ、兎も角、私のケータイに電話をかけてきて下さい」などと穏便に抗議していたのですが、“匿名の主”はさらなる暴言を連呼。書き込みは収まるどころか加熱する一方でした。

その中傷の傍若無人さはネット上でも話題になり、その投稿主は「上越支社の報道部長ではないか」との指摘があがってきました。そこで、高島弁護士が同社に確認したところ、報道部長は投稿を認め慌てて謝罪したという、実にお粗末な事件だったのです。

ちなみに、以下が“報道部長”の謝罪文です。

「高島章弁護士に対しての暴力的ツイートに関して高島弁護士に正式に謝罪いたします。当夜、当方はアルコールを飲んでツイートをしていたところ、高島氏が私に関してツイートをしていることに腹を立て、高島氏を侮辱するツイートしてしまいました。また、新潟水俣病4次訴訟に関しても『和解』しただけであり、『結審』はしておりません。事実誤認のツイートをしたことを深くお詫びいたします」

謝罪から数日後、事態を重くみた新潟日報は「経営管理本部付に移動させた」と報告しました。

さて、なぜ、私がこの事件をとりあげたのか? これまでのコラムをお読みならわかりますね。

そうです。この男性のとった呆れんばかりの言動は、見事なまでに私がここで書き綴ってきたことを“再現”してくれています。

・面識のない人に暴言を吐く、中高年のビジネスマン

・ストレスがたまっている、自称“エリート”

・所属先の社会的評価=自己の価値 という勘違い

・自己受容ができていない

この男性は明らかに「新潟日報の報道部長」という肩書きに溺れていました。このすべてを網羅する醜い“尻”の男が、天下の新潟日報にいるだなんて。なんとも情けない限りです。

おまけに、身元がバレた途端、慌てて謝罪するとは。どんだけヤワというか、幼稚というか。「社会的地位=自己の価値」と勘違いした人は、まるで子どものように自己中心的な感情だけの幼稚な人間に成り下がる。この男性は、そのことまざまざと教えてくれたのです。

そして、何よりも注目すべきは本人が「飲酒や職場のストレスから書き込んだ」と述べている点です。つまり、ヤツは全くストレスに対処できてない。ストレスに対処する力としての「SOC」が、全く機能していません。

ストレスとは、実に便利な言葉です。コヤツがそうだったように、SOCの低い人ほど「ストレス」を言い訳にします。悪いのは俺じゃない。ストレスが悪いんだよーー。そうやって必死で、自己弁護するのです。

奇しくも、この事件が起きたのは11月23日の「勤労感謝の日」。かつて、リチャード・M・ニクソンは「労働記念日」に次のようなメッセージを残しました。

「労働はそれだけで善であり、男も女も働くという行為のおかげで、よりすぐれた人物になる」と。

前回「属性は人をカタチどるとても大切なモノ」と書きましたが、正確には、「仕事こそが人のカタチ」を決めます。

どんな仕事にも大切にすべき有形無形の“道具”があり、新聞社のそれは、“活字”です。その新聞社の50を過ぎた人間が、活字で人を罵倒するだなんて。彼自身が自分の仕事を冒とくしたのです。

彼は30年もの新聞記者生活で、何をしてきたのでしょうか? 仕事とどう向き合ってきたのでしょうか? 彼はどんな“道具”を大切にしてるでしょうか?

考えれば考えるほど、情けなくなります。

そして、アナタは仕事とどう向き合っていますか? アナタの“道具”は何ですか?その道具を、大切にしているでしょうか?

「クソッタレの世の中は実にひどい。この国もクソくらえさ。だけどナ、消防士っていうのは、本物の何かをやっているんだ。火を消し、赤ん坊を抱えて飛び出し、死にかけたヤツに口うつしの生き返りをする。いい加減じゃダメだ。本物の相手だ。オレにはそういうのが夢なんだ」

これは今から40年以上前に、ある消防士がインタビューで「自分の仕事」について語ったことです。

インタビュアーは、スタッズ・ターケル。様々な職業を経て、ラジオ・パーソナリティーやテレビ番組のホストとして活躍し、後に「オーラル・ヒストリー」と呼ばれる独自のインタビューのスタイルを確立していった人物です。

ターケルは、ヒッピーが登場し若者が働かなくなったアメリカで、115の職業、133人の普通の人々にインタビューし、1972年に『Working!』(邦訳『WORKING!仕事』)という一冊の本にまとめました。

働く普通の人たちの「語り」だけで構成されているこの本は、読み手によって立ち止まる場所が変わり、自分のそのときの心の状態によっても受け止め方が変わる、芸術的な書籍です。

と同時に、読んだ人の誰もが「仕事って、何なんだろう? ホント、仕事って何?」と考えさせられる。それでも明日になればその問いの答えを置き去りにしたまま働き続ける。その人間の深くて浅い思考特性も、この本には実にリアルに描かれています。

ターケル自身の思いが語られているのは前書きだけで、「これは仕事についての本である」という文章で始まっています。その前書きの最後に「消防士トム・パトリックの言葉がこの本の最後の締めくくりになっているが、この前書きの結論にもなるだろう」とターケルは記し、件の言葉を引用しました。

前書きには次のような、胸にドンと突きささる一節も書かれています。

「語ってくれた人の中には、自分の日々の仕事に魅力を発見しているしあわせなものがいた。そこには仕事そのものというよりはむしろ、その人の人柄が感じられた。何よりも彼らに共通していたのは、賃金以上の、それを超える立派な仕事をしようとする意思だ。

その1人が消防士トム・パトリックであり、高級レストランのウェイトレスのつらさを克明に描写したドロス・ダンテだった。

彼女(=ダンテ)は高級レストランに来るお客たちが、ウェイトレスである彼女に向ける“まなざし”に我慢できない。その屈辱を我慢できないから余計に、つらさが増す。それでも彼女が毎晩無事にウェイトレスの仕事を務め上げられるのは、自分の腕に誇りを持っているからだ。

彼女は言う、『皿をテーブルに置く時、音ひとつたてないわよ。グラスひとつでもちゃんとおきたいのよ。客にどうしてウェイトレスなんてやってんだって?って聞かれたときには、“あんた私の給仕をうけるのにふさわしいって思ってないですか?”って、逆に聞いてやるのよ』と」。

私が『Working!』を最初に読んだのは30代。当時の私は、まだ自分が何者かの確信を持てないことに不安を抱いていました、なのでこれを読んだ後「ああ、認められたいって思っているのは、私だけじゃなかったんだな」と、少しだけホッとしました。

ところが、40代後半にこの本を読み返した時、私はなぜか勇気が出た。と同時に、改めて「ちゃんと私はやっているか?」と自問した。

“改めて”としたのは、ちゃんと仕事をすることが何よりも大事なことだと、40を過ぎたあたりから思い続けていたからにほかなりません。

なぜ、40代か? 自分でも分かりません。ただ、とにかくその頃から、ちゃんとやることが何よりも大切と思うようになっていたのです。

日々の仕事はしんどいことだらけです。世間でいうところの“やりがい”なんてものを感じるのは、1年で恐らく数日程度です。でも、私は「自分の仕事」をきちんと続けています。

このようなコラムを書くのだって正直しんどいし、自分との格闘の連続です。恐怖とプレシャーの繰り返しです。

それでもMAXに脳を回転させ、原稿を必死で書きつづけてきました。どんなに原稿を批判されたり、罵倒されたり、思うように伝えたいことが伝わらず落ち込むことがあっても、穴をあけることなくちゃんと書き続けてきました。

そうです。しんどかろうとなんだろうと目の前の仕事を毎日ちゃんと腹の底からマジメにやり続けてきたことで、今の「私」がいるのです。

書くことの誇り? そんなカッコイイもんじゃありません。もっともっと泥臭くて、内面に向けられていて。自分にウソをつかないことで、自分を納得させているとでもいうのでしょうか。

「なんで認めてもらえないんだろう」と悩むことがあっても、「ちゃんと仕事していけば大丈夫だよ」と、手を抜かずにやってきたことで自分に言い聞かせられるようになりました。

「今まで通りやるしかない」──。そう腹を括る覚悟を持てるようになりました。

おそらく「仕事」というのはこういうことだと思うわけです。「自分が自分たるべくいるため」の大切な手段だ、と。

「労働はそれだけで善であり、男も女も働くという行為のおかげで、よりすぐれた人物になる」──。

いいえ、違います。「労働」はちゃんとやって、初めて「善」となる。「立派な仕事をしようとする心」があって初めて「よりすぐれた人物」になる。

属性や肩書きに溺れることなく、「山田太郎」という1人の人間としてちゃんとやる。自分が大切にしている“道具”を忘れることなく、いくつになっても、どんなにえらくなっても、きちんと仕事と向き合う。

それができれば「仕事が自分のカタチ」になっていくのです。

前回「40代以上の“自己受容”できている人は、例外なくSOCが高い。そして、そういった人たちは決まって“あるコト”を大切にしています」と書きましたが、その“あるコト”こそが、仕事をちゃんとやることです。

あなたはちゃんと仕事してるでしょうか?手を抜くことなく、自分の仕事と向き合っているでしょうか?

「でも、会社っていう組織にいるとそれって結構難しいことなんじゃなんですよ。だって、上になればなるほど、仕事よりも気になることが増えてくるでしょ~。女はちっとも気にならないのに、あれって男のプライドなんでしょうか?」

こうシビアな現実を語る第2秘書室のメンバーたちが見た「男だけにあるプライド」とは?  次回お話しましょう。

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