女王様のご生還 VOL.67 中村うさぎ

母の認知症が進んだおかげで急に激昂することも少なくなり、介護する側も楽になったとはいえ、まだまだ目が離せないのは事実だ。



一番の問題は、徘徊。

先日も父が母を連れて郵便局に赴き、書類に書き込みをしている間のほんの2、3分目を離したすきに、母がどこかに行ってしまったそうだ。

父は大慌てで周辺を探したが、どこにも姿が見えない。

やがて父の携帯に電話がかかってきて、近くのデパートで保護されていることがわかった。

今さらだけど、携帯って便利だね(笑)!



このような状態だから、父の心労もさぞかしだろうと気の毒になると同時に、あんなに短気で自己中だった父がよくもまぁ、こんな母の世話を辛抱強くできているなと感心して、父に尋ねてみた。



「ねぇ、お父さんがお母さんの世話をしてるのは、愛情のため?」

「うーん……どうかな。いや、もちろん愛情もあるよ。だが、愛情は……そうだな、全体の3割くらいかな」

「たった3割かい(笑)! で、あとの7割は? 義務感?」

「うん、義務感が3割で、あとの4割はクリスチャンとしての俺の使命感かな」



ほほう、と、私は興味深く思った。

父が母の面倒を見ている理由の半分近くが宗教的倫理観であるなら、もし父がクリスチャンでなかった場合はどんなことになってたんだろう。

とっくに母を施設に入れていたのか、それとも家で怒りと不満を抱え込み、幼児のように聞き分けのない母に手を上げていたのだろうか。

かつて、幼い私に手を上げていたように?



当時、父はキリスト教に強い関心とシンパシーを持ってはいたものの、洗礼は受けていなかった。

日曜日は接待ゴルフに忙しく、教会に行く暇もなかった。



洗礼を受けて毎週日曜日に教会に通うようになったのは、会社をリタイアしてからだ。

ただ、先ほども言ったように昔からキリスト教にはシンパシーを持っていたので、家の洋服ダンスの棚に分厚い聖書が置いてあった。

だから私は小学生の頃から、その聖書を開いては難解な文章を意味も分からず読んでいた。

父が洋服ダンスの中の聖書をどれくらいの頻度で読んでいたかは知らない。



こうしてキリスト教は私の中に深く根を下ろし、大人になって神の存在を否定するようになってからも、その影響からなかなか脱することができないでいる。

刷り込みとは恐ろしいものである。



だが、そんな私は、母の介護をひとりでできるだろうか?

思考や倫理観がキリスト教の影響下にあるとはいえ、私はもはや無神論者だ。

ここで献身的に母の世話をしたからといって、神様が褒めてくれるとも天国に行けるとも思っていない。

父はどうなんだろう?

自分が天国に行くために母の介護をしているのか?

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