菅政権の肝煎りで創設を目指し動いている「デジタル庁」について、漠たる不安を覚えてはいないでしょうか?原因として「消えた年金記録」の問題があり、前政権の「モリ・カケ・サクラ」では、多くの書類が無かったことにされた問題があると解説するのは、メルマガ『8人ばなし』著者の山崎勝義さんです。山崎さんは、デジタル化に際し「保管」を重視する「デジタルアーカイブ庁」を設置すべきと進言。万一データが損なわれた場合の考え方についても具体的な提言をしています。
保管するということ
「ペーパーレス社会」、これで全てうまくいくのだろうか。試しに、なぜ紙でなければならないのかを逆に考えてみよう。紙は物理的存在である。故にそのまま保有・保管することができる。この実物感には説得力がある。
もちろん電磁記録であっても保有・保管はできる。ただ実物感となればまったくこれを伴わない。おそらく、所謂「昭和の人」がデータというものを嫌がる傾向にある理由もこの辺りにあるのであろう。実際「消えた年金記録問題」の時も最後に威力を発揮したのは個人保管による紙の領収書であった。そこでなんとなくではあるが「データ=突然消えて無くなる」「紙=手許に残る」といったイメージがついてしまったのではないか。
しかし、よくよく考えればデータも紙も保管はできるし、無くなる時は無くなるものである。年金記録もそれが紙であれデータであれ、中央・地方の役所が挙って無くしたから問題なのであり、また個人が無くしたから問題となったのである。双方あるいはどちらか一方にでも適切に保管さえされていれば何の問題もなかった筈である。
ただし個人に関しては領収書の保管方法・保管期間などを明確な形で全国民に対して周知徹底できていなかった訳だからそう責任は問えない。こういったことからも分かる通り、記録を預かる立場である役所の責務は相当に重いのである。
それがどんな形であれ、記録とは無くなる(可能性のある)ものである。そういった危機を管理するためにもデジタル庁の発足に合わせてそれとは対になるデジタルアーカイブ庁の創設が必要であると考えるのである。この省庁は国民のために電磁記録を保管し開示することを設立の趣意とするものである。
思えばこの国では、しばしば大事な書類が紛失する。先の政権においても「モリ・カケ・サクラ」と随分無くなった。本来、国家の行政書類は全て主権者たる国民のものである。故に高次の国防関係書類以外については、国民が望みさえすれば速やかに開示されなければならない。これを実現するのが件のデジタルアーカイブ庁という訳である。
個人的要望としては当該省庁に公文書部門と文化資料部門を設けて、文化資料はフリーアクセスとし、公文書は正式に要請があれば開示するという形にすればさらにいいのではないかと思う。
そして何より重要なのは、来たるべきデジタルアーカイブ時代に必要となる、ある大原則である。それは「何らかの事由でデータが損なわれ、その結果として国と国民(あるいは一部の国民)との間で利益が相反した場合、国民の利益を優先する」というものである。これで「消えた年金記録」や「消された年金記録」のようなこともなくなる。国民の信頼と国家の保証は共に起たねば意味が無い。
こういった原理原則もないままに、ただただ紙をデータにしたところで一体誰のためになると言うのか。政権担当者の都合が悪くなるたびに、都合良く無くなる類のものならそれは何をやっても無駄というものである。という訳でデジタルアーカイブ庁、いいアイデアだと思うのだがどうか。
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