歴史上、日本に大きな影響を与えた2つの国「唐」と「アメリカ」の共通点

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外国に学び、良いものを柔軟に受け入れ、ときには独自の工夫を加えて我が物としていくのは日本人の特長で、その最たるものとして明治維新では、世界が驚く速さで近代国家の体裁を整えてしまいました。メルマガ『8人ばなし』著者の山崎勝義さんは、そんな日本の歴史上で、特定の国の影響を大きく受けた時代が2度あると指摘。戦後のアメリカと奈良から平安時代にかけての唐を上げ、1300年ほども離れた2ヵ国には複数の共通点があると、日本人の民族性も絡めて歴史を紐解いています。

唐とアメリカと日本のこと

日本に最も影響を与えた国を今、歴史上に求めるなら、奈良から平安初期の中国・唐と戦後のアメリカであろう。明治維新も外国の影響を受けること大ではあるが、何処か特定の国と言うよりは近代の波そのものに飲まれたといった感じで、取り立てて一国の影響を強く感じるということはない。

さて、先に挙げた二例だが面白い符合がある。それはともに敗戦後ということである。唐の場合は白村江の戦い(663年)、アメリカは言うまでもなく太平洋戦争である。これもまた不思議な符合だがともに戦前の戦力分析から見てほぼ負けが決まっているような戦いであった。そこに何となく「絶対に勝てる筈がない。やっぱりぼろ負けした。勝った国は全てが正しいに決まっている。だから大いに学ぶべし」といった日本民族の通時的悲喜劇性が垣間見られるようで滑稽半分・哀切半分の複雑な気持ちになる。ただ一つだけ確かなことは、当時の唐、当時のアメリカを学ぶことは即ち世界を学ぶことと同義であったということである。

まず、移民の国であるアメリカが世界の縮図的になることは分かり易い。ことに20世紀はヨーロッパが二つの大戦の主戦場となったために戦禍を逃れた多くの英知が結果としてアメリカに集まることとなった。そういう訳で、太平洋戦争後のアメリカの各分野における潜在能力は戦勝国の中でも群を抜いていた。

時代はこれより1300年ほど遡る。唐の都長安では既に人口は100万を超えていた。堂々の政令指定都市クラスである。今、現代地図をめくってこの長安つまり西安を見ると、随分と西方に寄っているような感じがする。確かに黄河中流域を中原とする帝国以前の地理感覚から見れば渭水両岸は西方となろう。しかし始皇帝による統一事業が成ってからはこの地(秦代は咸陽)が帝都となり、それと同時に中原の概念は面的に拡大することとなった。しかも秦は西に興り東進して来た国である。それが九都八遷して咸陽に落ち着いた訳である。西にあるのは自分達が歩んできた道である。この意において、咸陽のちの長安は西に開いた都なのである。それに対し東方は潼関、函谷関、武関によって堅く守られており、寧ろ閉ざされていると言っていい。

この西に開いた地に代々の帝都が置かれたため、シルクロード最大のターミナルとしての国際都市・長安が生まれたのである。因みに日本が白村江で戦ったのは、オアシス都市を西へ西へと進んで最大版図を築いた三代高宗の時の唐である。勝てる訳がないのである。

のち武韋の禍を経て玄宗が即位し、歴史に言うところの開元の治の頃には、長安はアッバース朝イスラム帝国の円城都市バグダードと並ぶユーラシア屈指の国際都市となっていた。その宗教多様性だけをとってみても、仏教、儒教、道教は言うに及ばず、ネストリウス派キリスト教、ゾロアスター教、マニ教の寺院までもあった。中華という思想は既に、前隋唐時代にギリシャのヘレネス意識に見られるような排他的思想とは違う、包摂的なものへとそのあり方を変容させていたのである。

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