神の試練について深く考えさせられる旧約聖書の「ヨブ記」ですが、支援の現場に身を置く方がそこから感じるのは、信徒とはまた異なるもののようです。今回のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』では、要支援者への学びの場を提供する「みんなの大学校」を運営する引地達也さんが、「ヨブ記」の中にある自身がどうしても解けない難題を記すとともに、同記に対する複雑な心情を吐露しています。
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苦難の中にある人に語る「ヨブ」の苦難
支援が必要な人に対する活動をしていると宗教的な信念で行動する人と出会い、共に行動することがある。
自然災害や障がい者支援、子供のサポートや高齢者との活動でも、「隣人」に向けて自分のある力を発揮するのは、人が元来から持つケアの感覚を行為化したもので、そこに信条や理念が加わると、行動がスムーズになるようだ。
キリスト教の信徒とともに活動を共にした経験からは、さすがに「愛」を説く宗教との支援は相性がよい。
その中にあって、私が解けない難題が1つある。
旧約聖書のヨブ記の記述である。
「理不尽にも」神に試され次々と苦難に陥れられるヨブを「神の御業」なのだと納得することは中々難しい。
これは「障がい」がある状態の方々や災難に見舞われた人に「神からの試練」などと言えないことにつながっている。
だから、ヨブの試練を、どう解釈すればいいのかいまだにわからない。
わからないまま時を重ねて、支援をし続けながら、やはりわからないことを再度考えると、この先もわからないのだろうか、と絶望的にもなってくる。
ヨブ記は旧約聖書の「律法」「預言書」「諸書」のうち諸書にあたるもので、死海南部に住む神を崇める裕福な男性ヨブの話である。
多くの子供と家畜を持つ幸福なヨブが罪のないままその信仰を疑うサタンの仕業により、すべての子・財産を失う。
それでも信仰を貫くヨブにサタンは健康を奪うことでさらに信仰を試そうとするが、絶望的な苦悩にあっても神を求める。
友人3人はそのヨブの変わり果てた姿に、ヨブの「罪」に言及するが、ヨブは、自分は罪を犯していないと主張する。
最後はその信仰ですべてが回復し、財産や子供も倍になって与えられる結末となるが、やはり何か釈然としない思いが残る。
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