小山田氏辞退では終わらぬ障害者いじめ問題。いま求められる新たな社会規範

Keigo_Oyamada_aka_Cornelius
 

過去の障がい者へのいじめを巡る問題から東京五輪開会式の楽曲担当を辞任した小山田圭吾氏に関しては、現在もロックフェス参加についてネット上で大きな議論が巻き起こるなど、波紋が波紋を呼ぶ形となっています。今回、小山田氏が犯したような障がい者へのいじめは「消せない」し「許されない」と断言するのは、要支援者への学びの場を提供する「みんなの大学校」を運営する引地達也さん。引地さんはメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』で、自らの忸怩たる経験を告白しつつそう判断する理由を記すとともに、東京五輪開催の機会を得た今こそ、新たな社会規範を考えるべきとの思いを綴っています。

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過去の「いじめ」の過ちは消えないからの社会規範

東京五輪の開会式の楽曲を担当していたミュージシャンが90年代中盤の雑誌に掲載された過去のいじめ行為により、その役を辞したことの波紋が広がっている。

過去の過ちは反省することで消えないのか、という問題と、「いじめ」という事実のインパクトは大きい。

特に障がい者へのいじめに関しては、私の立場から見てきた経験として、「消せない」し「許されない」と断言したい。

心のコントロールの面で、支援が必要な人に大きな傷を負わせたことは残忍な行為として、大きな罪に値する。

懺悔しようが、当事者の傷は癒えないのだという前提で、その反省は消せないまま、一生負い続けなければいけない。

その負った反省とその後の改心した上での行動を「反省」の可能性として歓迎したいが、だからといって過去は消えるものではない。

絶望的な言い方かもしれないが、そんな過去の疼きの中で、人生の道は開いていくのではないかとも思う。

私自身の疼きもある。

小学校の頃に障がいにより歩くのが不自由だった友達がいた。

他者よりも少し体が大きく、体力もあった私はその友達が移動する時には積極的におんぶをしたりしていたのだが、それは自然な気持ちからであり、その友達と仲良くなりたいという純粋な思いのあまり、時折、その友達の「不格好」に見えてしまう歩き方を真似をした。

その真似は私としては仲間として「いいだろう」の軽い気持ちだったが、ある日、その友達の母親が来て、その真似はやめてくれと真剣に諭されたことがある。

そこで気づいたのは、友達は私がその真似をする度に傷ついていたということ。

油絵が好きだったその友達は親友に絵を配って、亡くなった。

その絵は草原を自由に駆け抜ける白馬が描かれており、自由に歩くことがかなわなかった友達のメッセージのようで、今でも私は、自由に歩けなかった彼を真似した過去が胸をえぐってくる。

そして、最近の当事者からの相談に応じる面談メモを振り返ると、そこには多くのいじめを受けた記録がある。

日々、当事者の「今」と向き合うものの、その今を作っている過去の経験の中で、いじめは邪悪な存在だ。

その記録を読み返すと、子供の無邪気さゆえに、ということでは済まされないケースばかり。

そこには邪気がある、と思ってしまう。

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