「わしは天才相場師や」SMの鬼才・団鬼六を育てた詐欺師のような父

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官能小説の第一人者にして、脚本家、演出家、エッセイストと多くの顔を持つ団鬼六さんが鬼籍に入られてから、早いもので今年で10年。「SMの巨匠」の異名を取り波乱万丈の人生を送った団さんの人格は、いかにして形作られたのでしょうか。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』ではライターの根岸康雄さんが、駆け落ちから始まる団さんのご両親のエピソードを紹介。そこで語られていたのは、まさに強烈としか言いようのない父と、そんな父を子供のように扱う母の姿でした。

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団鬼六/SM官能小説家「“絶対に儲かる!”“お父さんの話を聞いたらダメ!”極端な両親だった」

確か自宅に近い西武線の沿線の駅前の喫茶店でのインタビューだった。SMの巨匠はどんな雰囲気を持っているのか、興味があったが、和服姿の氏は笑顔を絶やさないノリのいい人だった。多分、このノリでSM官能小説も仕上げていったに違いない。和服に赤いヒモ、畳に襖等、日本人の奥底に潜むエロスの世界、そんなエンターテインメントを痛快に描けた。その意味で、氏の官能小説は多くの読者に支持されたのだろう。(根岸康雄)

ばあさんと親父、二代に渡る駆け落ちで成立した我が家

「わしは天才相場師や」

そう自認していた親父は、鹿児島の商家のボンボンで、上京して明治大に通っていた頃は、玉突きばかりやっていたらしい。明大を中退した親父は、松竹の脚本部に籍を置いてくすぶっていた。

オフクロは18歳ぐらいで国木田独歩の息子と結婚して、男の子を産んで。20歳ぐらいで離婚。その後は直木賞で有名な直木三十五に弟子入りし、直木に勧められて女優になった。

親父は女優に憧れてオフクロにモーションをかけたが、一介の脚本部の部員と女優がくっついたんじゃ映画会社にはいられない。二人は滋賀県の彦根に駆け落ちする。

彦根には親父の母親がいて、僕のおばあちゃんという人も、鹿児島時代に自分の店の番頭といい仲になって駆け落ちして。落ち着いた先の彦根で事業が成功し、映画館を経営していた。

だからおばあちゃんと親父と、うちは二代に渡って駆け落ちしているというわけだ。

そのへんからして、うちは何が何だかさっぱりわからん家だった。彦根時代、戦前のことだ。女優をしていたハイカラなオフクロが映画館の横にダンスホールを開くと、ダンスを習いたいという人が大勢集まってきて、繁盛していた。

元女優のオフクロは美人で、文学を志して直木三十五に弟子入りした経験もあって、当時の文士のこともよく知っていて。町の文学青年がオフクロの話を聞きにしょっちゅう、家に出入りしていた。

親父はそんなオフクロにコンプレックスを抱いていたんだな。ある日のことだ。

「オレは同人誌を作る!」

そう言い出して。オフクロへの対抗心からだったのだろう。そんな親父をオフクロはチャンチャラおかしいとばかり、ホホホッと鼻で笑っていた。

親父のいい加減さはものごころつく頃から気付いていた。小さい頃、親父と一緒に歩いていて、デカい家を見ると、

「おまえな、勉強してどないするんや、一代でこないデカい家に住もう思うたら、相場しかあらへんで。相場師になれ!」

と、言っていた。

──どこの世界に、勉強している息子にいい顔をせず、相場師になれという親がいるか。

幼心に僕はとそう思っていたけど、オフクロもそんな親父にあきれていたに違いない。二言目には僕に、

「お父さんの言うことをきいたらダメ!相場なんかに手を出したダメや!ひどい目に合う」

と、釘を刺すように言われたものだ。

太平洋戦争がはじまる前年、もう映画なんて時代じゃなくなると、親父は彦根の映画館を売り飛ばして、一家で大阪に出た。親父は軍需工場で働きはじめたが、その工場にいた女に手を出して。当時、僕は親父に呼び出され、こんなことを言われた。

「おまえは長男だから教えとく。わしに女ができてな、お母さんには内緒だぞ」

なにが女ができた、オフクロには内緒にしておけだ、偉そうに。

「お父さん言うとったわ、女ができたって」

オフクロにそう言ったら、

「ああ、知っとるわ」

と、オフクロは涼しい顔をしていた。

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