これも運命か。大企業トヨタを救い、トヨタを作った「田舎者」たち

Moscow,,Russia,-,October,10,,2015,:,Logo,Of,Toyota
 

日本で一番利益を出しているトヨタという大企業を作り上げた経営者や従業員たちは、いつも「幸運の女神」に微笑まれていたのでしょうか。メルマガ『戦略経営の「よもやま話」』の著者である浅井良一さんは、創業者の豊田喜一郎氏のエピソードを交えて、トヨタの強い精神力と文化について語っています。

「運命」は翻弄する

トヨタは、企業そのものとしては非常に運の強い存在だと言えます。しかし、そのトヨタという企業をつくり上げた経営者や従業員が、同じよう常に幸運であったかというと、必ずしもそうではないので。ときに“不運”にもてあそばれ決死で血路を模索してもがきながら、そこから新たな共存の道を見出し賢くなり成長するのです。

少し変な物言いをしますが、ここで言いたいのはトヨタが繁栄しえたのは、「時代性」という機会をとらえて、そこで働く人が他をはるかにしのぐ知恵と働きを注ぎこんだこんだから成したことなので、その過程は、選ばれし者がたどるもので、運命に翻弄されながらも生きんがため豊かにならんがため協働して知恵を尽くした結実だと言えます。

幸運の女神はまったくの気まぐれで、人間を窮地に追い込むとともにその御心にかなうことを行い続けているとき恩寵を施すようです。マキャベリによりますと、運命は女神なので果敢がお好みではあるらしいのですが、豊田喜一郎さんが果敢でその努力は人を凌駕していても、恩寵に浴せるその時に使命を果たそうとするその時に生涯を終させました。

それは、こんな経過です。

1945年にトラックの製造が許可され、民需転換の許可も得て会社再建の道程がひらかれ、喜一郎さんが陣頭指揮をとることになりました。そんななかの1949年、インフレを克服するためとして「ドッジ・ライン」と呼ばれる経済安定化政策を進められ、通貨供給量が減らされため、産業界は深刻な資金不足に陥って失業や倒産が相次ぎ起こったのです。トラックの需要は鈍化し、さらに生産用資材の引きあがるなかで自動車の公定価格は据え置かれたので、赤字が続くことになったのです。

喜一郎さんは、昭和恐慌の際に豊田自動織機製作所で雇用問題を経験し、そのような事態を二度と起こさないとして自動車事業へと進出したのですが、心ならずも1,600名の希望退職者を募集することになったのです。労働争議は2カ月に及んだのですが、協調の必要性を実感し1950年6月に終結され、その責を負って社長を辞任することになったのです。

運命は人を翻弄するもので、1950年6月に「朝鮮戦争」が勃発したのです。1951年3月に大量のトラックを受注し、人員整理にまで手をつけなければならなかったが、業績好転し新たな一歩を踏むことになったのです。喜一郎さんは、1952年7月の株主総会で社長に復帰することが内定したのですが、同年の3月27日に「創業者豊田喜一郎」として、亡くなりました。

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