コロナ禍で身近に。自らの辛い状況を言葉にする難しさとためらいと

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内面であれ、周囲の環境であれ、人が抱えている困難な状況を他者に正確に伝えるのは本当に難しいもの。「普通の世界」にいる他者は、例えば「引きこもり」のような言葉で、レッテルを貼り分類してしまうため、当事者の「言葉へのためらい」はますます深くなるようです。メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』著者で要支援者の学びの場「みんなの大学校」を運営する引地達也さんは、そうした状況への理解を広げる際の言葉の難しさを常に感じながらも、コロナ禍で多くの人が不幸の中にいたことで、この「ためらい」の問題を身近に考えることができるのではと、期待しています。

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言葉にためらい、言葉を探す道はゆっくりと

大学を卒業している計算だった甥っ子に久しぶりに会ったら、未だに大学に通っているとのことで、卒業論文のテーマを急に変えたくなり、休学したとのことだった。出席も成績も問題なく順調だったが、文学部の彼は村上春樹をテーマの卒業論文から少々マイナーな私小説家をテーマにしたくなったという。

同時に今後の学びの方向性を考える中で、文学から数学に行きたいという話にもなった。現在は哲学者であるラカンや柄谷行人を読んでいるようで、その思考傾向を見ると、彼は確実に「彼の世界」を作り上げていく道しるべを探しているようで、「休学」という世間から見れば少々遠回りに見える道が、彼にとっては最適な学びの道。そんな道の途上にいることを知り、私も年齢は違えど同じ道の上にいる同志がいるようで心底嬉しくなった。

この嬉しさは同時に、この世を生きていく上において、「言葉」というものがどのようなものかを考えることにもつながるから、私にとって仲間を得た思いもある。

この記事などを書いている私は日々、言葉にすること、に向き合いながら、文字にしたり口にしたりすることで、社会と接し、その言葉の一つひとつが他者にとっては私のアイデンティティや人格と認識されて、それは積み重ねられ、想像のかけらとなって、知らない偶像まで作り上げられていくことになる。

自分が出している言葉自体もまだ不完全なのに、他者に渡った時点で、もう自分から離れ、自分ではなくなってしまう。それでも私たちの社会はその言葉たちに人格を与えて関係性を結んでいく。この言葉への「ためらい」は社会ではなかなか議論にはならない。「ためらい」を感じてしまうと孤独を伴うから、危険でもある。

それでも勇気を持って、この言葉へのためらいを口にし、考えることが必要であることは、私は支援の中で実感してきた。それは「定型」という言葉で持って語られる「普通の世界」の一方的な言葉への戸惑いとして提示されることが多い。言葉によって圧せられて、それは生きにくさとなり、時には「二次障害」という形で社会となじめないまま時が過ぎることもある。

そんな彼・彼女らを社会は「引きこもり」というが、言葉が交差しない状況の中では、彼・彼女らは普通の世界から排除されたともいえるので、それは彼・彼女らの責任ではない。

この引きこもりの認識をめぐっても、言葉へのためらいが根本の原理として働いているようで、真剣に向き合う必要がある、とここ数年考え続けている。ただそれを口にすると「難しい人だ」という評価とともに排除される可能性もあるからやっかいだ。どんな言葉で、その現象を語っていけばよいのだろうか。

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