「基地負担」今なお重く 焦点の普天間、県内移設で決着―沖縄復帰50年

2022.05.11
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by 時事通信


沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場=2014年6月27日

沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場=2014年6月27日

  • 住宅密集地にある米軍普天間飛行場(奥)=2月9日、沖縄県宜野湾市
  • 米軍普天間飛行場の移設に向けた埋め立て工事で、土砂が投入され埋め立てられた名護市辺野古沿岸部=2月25日、沖縄県名護市

 太平洋戦争で国内最大の地上戦となった沖縄戦を経て戦後、在日米軍の基地建設は急速に進んだ。米軍基地は沖縄県に集中し、「基地負担」が今もなお重くのしかかっている。その象徴が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の県内移設だ。日米は全面返還で合意した同飛行場を名護市辺野古に移すことで政治決着を図った。固定化を懸念する地元の反発はやまない。
 ◇諦め、無力感
 「国頭へ行け」。1945年3月下旬、県中部の読谷村牧原で暮らしていた町田宗益さん(91)は、米軍の慶良間諸島上陸を知った周囲の助言を受け、親戚と国頭村のある県北部へ向かった。やんばるの森で同年8月の終戦を迎え、収容施設で1年過ごして自宅に戻った。すると一帯は既に米軍が管理し、立ち入れなかったという。
 自宅があった場所は米軍嘉手納弾薬庫地区となった。町田さんは役場に割り当てられた読谷村内の別の場所に移らざるを得なかった。「諦めや無力感、どうにもならない気持ちだった」と当時を振り返る。
 日本が52年発効のサンフランシスコ講和条約によって主権を回復し、沖縄が日本から分離されて米施政権下に置かれると土地の強制接収は加速。現在の那覇市中心部などでは米軍の「銃剣とブルドーザー」による基地建設が行われた。
 ◇既成事実化
 日米は96年、「沖縄に関する日米特別行動委員会(SACO)」で基地負担軽減策をまとめた。これを受け、米軍楚辺通信所や読谷補助飛行場(いずれも読谷村)は全面返還され、県道越え実弾砲撃演習は県外に移転。だが、沖縄に在日米軍専用施設の約70%が集中する状況が続く。移設を前提とした普天間の返還も実現していない。
 日米は2006年、辺野古沿岸部を埋め立ててV字型滑走路を建設するとした現在の計画で合意。県内移設で「決着」させた形だ。12年の第2次安倍政権発足以降、政府は、県の埋め立て承認を取り付けた。法廷闘争の末、18年には土砂投入に踏み切るなど辺野古移設の「既成事実化」を急ぐ。
 岸田政権も歴代の方針を踏襲し「辺野古移設が唯一の解決策」との立場を崩さない。ただ、旧民主党政権時代、森本敏防衛相(当時)は普天間の移設先に関し、「軍事的には沖縄でなくて良いが、政治的には沖縄が最適の地域」と語った。他に選択肢がないという歴代政権の説明に対する県側の疑念は晴れない。
 本土復帰50年を前に県が策定した「建議書」は、普天間の辺野古移設断念を求めた上で、基地の沖縄集中を「構造的、差別的」と表現。玉城デニー知事は7日の記者会見で「日米安保は国全体で担うべきものという観点からすると、沖縄の7割はあまりにも依存が強すぎる」と訴えた。(2022/05/11-07:28)

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