時代劇好きの少年がどうやって刀鍛冶になったのか?〜刀鍛冶集団「日本玄承社」〜

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2022/05/19

一切の無駄を省いた美しいフォルム。そこに存在するだけで圧倒的な威力を秘めた日本刀は今、国内外で人気を博しています。2022年1月、若い刀鍛冶たちによるこの日本刀の制作・販売会社「日本玄承社」の鍛冶場が立ち上がりました。

なぜ、刀鍛冶に?なぜ京丹後で?なぜ3人で会社を?などなど聞きたいことだらけ。彼らの刀鍛冶としての思いと共にお話を伺いました。

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時代劇好きの少年たちが刀鍛冶に

日本玄承社があるのは立岩まで車で7分。竹野川沿いの長閑な地

丹後半島の北側。立岩で有名な間人(たいざ)のほど近くに2022年1月、刀剣小鍛冶社コンクール受賞経験のある若き刀鍛冶――黒本知輝さん(35)、山副公輔さん(32)、宮城朋幸さん(32)の3人による日本刀の制作・販売会社「日本玄承社(にっぽんげんしょうしゃ)」の鍛冶場が誕生しました。

3人が修業したのは、東京で日本刀の鍛冶場を開く吉原義人(よしんど)氏のもと。吉原氏といえば現在の刀職制度の中で最高位といわれる称号「無鑑査刀匠(むかんさとうしょう)」であり、東京都指定無形文化財保持者という人気・実力ともに当代を代表する刀匠です。刀剣が好きな人ならば知らない人がいないほど、有名な方なんです。

左から宮城朋幸さん、代表の黒本知輝さん、山副公輔さん

そのような素晴らしい師匠についてたという3人。今でこそ刀剣はアニメやゲーム、舞台等で人気ですが、彼らがこの道に入ったのはブーム前のこと。

何がきっかけで?と尋ねると黒本さんが「実は3人とも理由がほとんど一緒で、まとめて話してもいいぐらいなんです(笑)。僕らは幼少期から時代劇やチャンバラなどを映画やテレビ、マンガなどで見て、刀に憧れをもっていたんです。それで中学生の頃には刀鍛冶になりたいと思うようになりました」

刀に憧れを持った少年たちは刀を眺める側ではなく、作る側になりたいと思ったんですね。

「師匠は大事なものは守りながらも効率化できるものは、どんどん最先端のものを取り入れる方ですね」と山副公輔さん

山副さん「刀を作れたらカッコイイだろうなと思ったんです。僕は、高校進学はせずに師匠に弟子入りしたいと手紙を送りました。そうしたら『高校は出なさい。3年経ってもやりたいのだったら、いつでもおいで』と言っていただいて。それで高校を卒業して師匠の元へ行きました。とはいえ最初は断られてしまい、1週間見学に通っていたら『立っているだけだとヒマだろう』と。それで鍛冶場に入ることができました」

お返事をいただいたからといって、すんなりと弟子になれるわけではないのですね。これは、なかなか厳しい世界。


師匠は「奇想天外なところもあり、その時の自分の価値観と全く違う言葉をかけてくださるので結構、ズシンときます」と黒本知輝さん

黒本さん「私は山副と同じく大阪出身なんですが、中学3年生の時に親に刀鍛冶になりたいと相談したら『遊んでもいいから高校にいってくれ』と言われました。それでむちゃくちゃ遊びまして、高校を出たのが22歳(笑)。その間、バイク屋さんやバンドを手伝ったりしていたのですが、きちんと進路を決めようと思った時、やはり刀鍛冶になりたいと思ったんです。それで刀剣の展覧会で師匠の作品を見て、弟子になりたいと東京に移り住んでしまいました」

弟子入りを許可してもらったわけではないのに、いきなり東京に移住してしまうのですね。

「最初は断られたのですが、師匠に『見学だけでもさせてもらっていいですか?』とお願いしたら、師匠は優しいので『いいよ』っと言ってくださった。『明日も来ます』と毎日通っているうち、『そういえば弟子になりたんだって?』って言っていただいて、気が付いたら弟子入りしていたという感じです」

大学で鉄について学ぼうと、弟子入り前に芝浦工業大学へ進んだ宮城朋幸さん

宮城さん「僕は高校生の時に刀屋さんに刀鍛冶になるにはどうしたらいいのか話を聞きに行ったりしたのですが結局、大学へ進みました。でも、師匠の作る刀のシャープさ、派手さ、その他、いろいろなカッコ良さに魅かれ、大学4年生の時から月1、2回、1日中見学させてもらうようになったんです。大学を卒業してから5月に『入っていいよ』と言っていただきました」

刀を作る時に使う燃料は松炭。修業は炭を3㎝角にひたすら切ることから始めるのだとか

最初は断られたものの無事に弟子入りできた3人。当時、弟子は彼らを含め7人ほどおり、まずは兄弟子について、燃料の炭を切ったり道具を直したり……という雑用からはじめていくことになります。

もちろん給料はありませんが、その分、師匠のところでは勉強代などを払うこともなかったので平日は9~18時まで修行をし、夜や土日は自分の生活費を賄うためにアルバイトをするという生活だったそうです。

真夏の暑い日も、凍えるような寒い日も鍛冶場で修業し、順次、刀匠資格を取得した3人。吉原氏のところには半独立した弟子が借りられる鍛冶場があり、師匠の仕事をしながらここで自分たちの刀も作るようになります。

そこは泊まれるようになっていて、3人とも歳が近いのもあり自然と日本刀業界のこと、将来のことなどを話す機会が多くなりました。

刀鍛冶になるには……日本刀を作刀している刀鍛冶に弟子入りして4年間修行をした後、文化庁主催の「美術刀剣刀匠技術保存研修会」に参加。8日かけて作刀の行程を実際に行ない、基本の技術を確認する試験を受け、修了することが条件。

自分の鍛冶場を持ちたい

「刀の業界を切り開ければ」と3人で話していました(黒本さん)

中でも「自分の鍛冶場をどうするか」ということは重要でした。しかし、そう簡単に作れるものではありません。小屋程度の鍛冶場を建てるだけでも約1,000万円は必要。そこで銀行などに融資のお願いに行きますが……。

黒本さん「そこでまず、つまずくんです。僕たちは若い時から師匠の元で修業をしてきましたが、収入源はアルバイトだったので社会的信用がない上、刀鍛冶としての実績はありません。それに刀業界の規模や市場シェアが分かりにくく、お金を借りるのが難しい。借りられても1人200万円が限度だったんです」

そこで「3人で協力して知恵を絞ってやっていこう!」と決めたのです。3人とも「刀の業界を切り開きたい」という思いもあり、会社を設立することにしました。

さらにそのタイミングで、なんと宮城さんの名づけ親である方が出資をしてくださることに!金銭面での問題にも光明が射しました。

カンカン トントンとリズミカルな大槌と小槌の音が響きます。道具は全て刀工の手作り

早速、鍛冶場となる土地探しが始まりました。場所もお客さんが訪ねやすいように東京駅から1時間圏内を探しますが、やはり土地代が高く、またカン!カン!という槌(つち)の音や振動、鉄を熱するために使う炭の粉が周囲に飛ぶので住宅街に作るのも難しく、2年間ほど決まりそうになってはダメの繰り返しだったそうです。

そんな時、山副さんの親戚から京丹後市にある祖父母の家が空き家になると連絡が……その家は山副さんが子供のころ、毎年夏になると遊びに来ていた思い出の家でした。

山副さん「当時は関東圏にこだわって探していたのですが、頭の片隅に京丹後の家のことはあったんです。そのような中でコロナ禍となり、場所は関係ないんじゃないかなと思うようにななりました。そこで2人に、京丹後はどうだろうかと相談したタイミングで、この家が空き家になることになったんです。2人を連れてきたら気に入ってくれて。親戚も僕たちが使いたいといったら喜んでくれました」

完成した念願の鍛冶場

さらに子供のころから山副さんを可愛がってくれていた、近所にある民谷螺鈿株式会社の民谷勝一郎さんのサポートも強力でした。

山副さん「ここで工房を持つことを考えていると伝えたら、『できることがあったら何でも言ってくれ』と言ってくださって。銀行への相談や、工務店を探してくれたりと全て手配をしてくれて。また市長さんも紹介していただきました。何より京丹後市がすごく歓迎してれたのも決め手になりました」

工務店と共に作った鍛冶場。壁は自分たちで塗ったのだとか。黒壁がカッコイイ!

決まり出すと、事は一気に進み出しました。会社設立したのが2019年。そして2021年に鍛冶場の建設に着手。2022年1月に無事、「火入れ式」が行われ、念願の鍛冶場を開くことができました。

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